児島の起源

 かつて児島は、瀬戸内海に浮かぶ島であった。その名は、わが国最古の文献として知られる『古事記』にいきなり登場する。『古事記』の国生み神話によれば、大八島に続く九番目の島として、吉備の児島は生まれる。しかし、児島の住民はさらに遡ること一万数千年の前縄文時代から、この地を生活の舞台として営々と生きてきたのである。その人たちの残した石の道具や生活の跡は、鷲羽山を中心とする一帯から発見されており、約五千年前に至る縄文時代には、児島沖の六口島などの島々や児島地区内の低地へと広がっている鷲羽山出土の土器類、海岸周辺の各地から出土する貝塚や石包丁などから想像される縄文弥生の生活は漁業や山麓での農業など、採集中心の生活であつたと想像されるが、出土した土器類の中には、塩づくりに使用されていたと考えられる用具が多数発見されている。

 古代の児島では、盛んに古墳の造成が行なわれるなど人の動きが活発になり、『古事記』や『日本書紀』に登場する吉備の児島は、大和朝廷において地理的に重要な位置を占める存在となる。当時の児島は、吉備の穴海と呼ばれる浅い海を北にはさんで、岡山の三大河川すべてから送り出される土砂を受け止め、後の広大な平野を生み出す役目を果たしていた。瀬戸内海のほぼ中心部分にあって、東西交通の要衝として、また、当時の貴重な物産である塩を税として納める産地として、多くの重要人物が往来している。『記・紀』の記述に従えば、神武天皇の東征物語に登場する吉備の高島は塩生の高島であり、日本武尊の活躍の話にも吉備の児島は登場する。また、竜王山には、神功皇后が舟がかりして休まれたと伝えられている。現在の岡山市郡に置かれたという児島の屯倉は、こうした児島の政治的な地位をも確立し、吉備国を制圧し、大陸との交流と貿易に欠くことのできない大和政権の拠点となった。

吉備の穴海図


(縄文時代頃の児島の様子)

 大和朝廷の政治的拠点であり、内海の東西交通の要衝となった児島には、政権の要人が多く立ち寄ったであろうことが推測されるが、中でも、『万葉集』歌人の大伴旅人は太宰の帥として筑紫へ赴任、太宰府を離れるにあたっての贈答歌を残している。

倭道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかな
(やまとに帰る道々に吉備の児島を通っていくと、筑紫の地で愛したあの児島という名のことが、思い出されてなつかしい)

 奈良時代に仏教が広まってくると、通生の般若院や由加の蓮台寺が、名僧行基によって開山されたと伝えられており、その他多くの寺が生まれた。一方、熊野権現の神輿を奉じた役の小角の弟子、義学たちが児島の南海石榴浜(今の下の町のあたり)に上陸し、熊野道を進んで福岡の庄(今の林)に鎮座されたと伝えられるのも、この頃である。熊野権現は修験道、山伏の基地(現在は五流尊龍院)であるとともに、海運の守護にも関係があったので、当時の塩作りや海運との関係も想像される。また、福岡の南に位置する福南山山頂には、木華佐久耶比嘩神社があって、この新熊野山の守護神となっているが、延喜式外古社となっており、相当に古い創建である。

 平安時代になると、征夷大将軍坂上田村麿呂が鬼征伐のために派遣されたという伝説が『喩伽山縁起』にみられるが、児島の観音聖地に誇り高き武将を登場させずにいられなかった当時の民衆の熱烈な観音信仰が伺われる。『古今和歌集』に歌われた唐琴には、菅原道真に関する伝説があり、今も守られている習慣がある。太宰府に左遷された傷心の菅原道真は、唐琴の泊りの風景と里人の暖かいもてなしに滞在を続けたが、旅立ちの朝、夜明けを待たずに鶏が朝を告げてしまったために、慌ただしく旅立ったので、以後この集落では、鶏を飼わないというような無邪気なものである。その時菅原道真は、唐琴を愛でる三首の歌を詠まれたという。中のひとつは、

舟とめて波にたたようことの浦通ふは山の松風のをと

(舟をとめて静かな琴の浦の波にただよっていると、聞こえるのは山の松をそよがせる風の音だけだよ)

 このころ『日本後紀』には、児島の塩百姓を保護することに中央政府が努力することを示す記述があり、すでに塩田と塩百姓があったことがわかる。この日本史史上初めて登場する児島の塩百姓とは、吉備の児島であることは明らかであるが、その場所はどこであろうか。現在の児島に塩の字をもつ地名は、塩生(しょーなす)である。今は、水島工業地帯の緑地をはさんだ山麓という趣きを呈しているものの、本庄小学校近くの塩釜神社の西側に美しい砂浜が広がっていたことは記憶に新しい。付近では、製塩用土器や塩田跡と思われる遺構が出土することをみても、児島塩業発祥の地と考えてよいと思われる。この頃の製塩がどのような方法で行なわれていたかは、文献、記録が失われているため不明であるが、揚げ浜式、もしくは初期の入浜式に近いものであったようである。

 古代の地名には、地域の産業の集積を示す地名がついていることが多いが、塩に関しては鷲羽山沖の釜島についても、同様に塩づくりの歴史がうかがわれる。この釜島では、東国の平将門の乱に呼応した、承平天慶の乱一方の主役藤原純友が海賊勢力と呼応して追討軍との合戦を交えたが、純友がこの地を中心に活動したのも、製塩と塩の海運と無縁ではない。古代の貴重品である塩の生産と塩の運送による海運の発達は、児島の地の重要性を増すとともに、この地をめぐっての戦いの場面を迎えることになる。

平氏が全盛をきわめた平清盛の頃、『山家集』で知られる西行法師が児島を訪れたのは未だ島であった児島の北岸であったと思われるが、備前児島に流刑となった『千載集』歌人藤原成親がとどめ置かれたのは下津井田の浦で、『平家物語』に描かれた島の風情は今の鷲羽山のたたずまいを美しく表現している。

中世の児島

 一の谷の合戦に破れ屋島に退いた平家は、下津井合戦など反平家活動の中、平行盛を総大将として備前児島に陣を構え、本土に最も近い藤戸で源氏軍と対峙するが、佐々木三郎盛綱の奇襲により大敗した。拠点を失った平家は、屋島に孤立することとなり、没落の運命を進めてしまうことになる。戦いに先立つ仲秋の月を行盛は、次のように詠んでいる。

もろともにみし世の人は波の上に面影うかぶ月ぞ悲しき

(いっしょにこの月を見たあの人は既に亡く、瀬戸の海の波間に浮かぶ月を見れば、在りし日の面影が忍ばれて、今見るこの月のなんと悲しいことだろうか)

 一方、藤戸での合戦悲話は、謡曲『藤戸』に謡われ、武功により児島に入部し、豪族となった盛綱への怨憎と悲しみを語っている。

 源平後の児島の人口は、急増する。しかし、当時の生活は依然として半農半漁、生き物を採取しての生活が主流であったと考えられる。鎌倉に入って民衆の間で仏教が盛んになったことと、殺生することによって生きることへの恐れは無関係ではない。平氏や木曾源氏の落人伝説も残っている。鎌倉時代には中央との関係も深まり、多くの社寺の建設が進んだ。現在も残っている社寺も多いが、建物がなくなった社寺の跡などにも、色々な石作り建造物は現存している。

 全国に3か所ある後鳥羽上皇の墓所のひとつが、後鳥羽院供養宝塔として、児島林にある。承久の乱に敗れた院が隠岐に崩ぜられた時、林の熊野権現には、二人の皇子がおられた。当時、隠岐御番鍛冶であった備前福岡の刀工のひとりが、御遺骨を持ち帰ったのではないかと考えられている。この時期を境に熊野から新熊野へと、修験者集団が移動したことは、院を頂点とする公家勢力と武家集団との勢力争いに決着をつけた事件の真相に触れる一助となる。『新古今和歌集』撰の院宣を下された年に出生し、承久の乱後、児島に配流になった第六皇子冷泉宮頼仁親王の歌碑は五流尊龍院の庭内にある。

この里にわれいくとせかすごしてむ乳木の煙朝夕にして

(護摩壇の前に座り、朝夕、護摩を焚いてお勤めをする毎日を過ごしながら思い返せば、この里に流されてはや、いく年が過ぎ去ったのだろうか)

 下の町田和の王子権現小社の一遇にニメートルあまりの花崗岩製の宝塔がある。かっての総願寺跡であることを示す碑文には、建仁三年(1203)の銘文があり、鎌倉初期の貴重な資料となっている。また応永年間の刻銘のある通生本庄八幡宮の三の鳥居は室町の作例として全国的にも珍しい。この頃の石造りの技術力の高さは、他の石仏、石像にもいかんなく発揮されており、熊野道や下津井田の浦の延命地蔵など鎌倉、室町の銘を刻した文化財は、歴史の厚みを感じさせる。林の尊龍院に生まれ育ち、あの『忠義桜』でその名が知られる児島高徳が南朝に活躍したのもこの頃である。

 藤戸の悲劇を経て、吉備の穴海の浅瀬が、三大河川の運ぶ土砂によりますます広がって内海の様子が大きく変化してくると、主要航路は南に移り、児島は一大転機を迎える。風待ち、潮待ちの港として下津井が勢いを増してくる。建部の中興の挫折に乗じて室町幕府を開いた足利尊氏が、東征の途上、吉備の穴海を避けて下津井吹上に仮泊し、吹上観音寺に陣を敷いたのも北航路の終焉が近いことを示していた。

近世の児島
 戦国時代も秀吉の天下統一によって終わりを告げようとするころ、相次ぐ干拓と新田開発により、倉敷周辺の開発が進み、1618年頃ついに児島の北西部は一部で本土と連なった。以後営々と続く干拓と新田開発の歴史は、今やかっての瀬戸内海に浮かぶ児島の面影を失わせるほどの広大な平野を児島の北岸に生み出すとともに、児島の歴史に一大転換期を迎えることになる。

 江戸幕府が開かれ、赤穂城主でもあった池田長政が下津井城主として赴任すると、当時先進地域とされていた赤穂の製塩技術が導入され、阿津を中心に児島の南岸を塩田化する動きが盛んになる。下津井の城は、間もなく廃城となるが、阿津の塩田は、児島の一大産業として大発展する。熊野に勢力を振るっていた堀内氏の子孫が富田屋となって、遠浅の浜への塩田新田の開発を進め、八間巾の入浜式塩田を確立した。居宅を洲の脇に構えたために後に洲脇氏と呼ばれたという富田屋は、数代にわたって塩田開発を進め、製品である塩の貿易を行なう塩積みの船問屋として栄えた。阿津の港は、千石を上回る巨大な帆船群によって埋まり、大繁盛するとともに、海上交通が大いに発展した。鎖国当時のことで、正確な資料は不明であるが、富田屋の持船は、江戸大阪は勿論のこと、朝鮮、清、シャム近海まで進出していたと言われている。18世紀後半になって、相次ぐ海難によって家勢が衰えると、瀬戸内海運の拠点としての地位は下津井の港へと移った。

 下津井港は、風待ち、潮待ちの良港として、肥後の細川など参勤交代の大名や、江戸参府途上のオランダ商館長、朝鮮通信史などが立ち寄った。北前船の来航は、池田家の南の拠点としての地位を高めるとともに、諸物資の交易による海運業が発達した。北前船の運ぶにしんかすは、米作りへの中間作物としての塩に強い綿を栽培するための肥料に使われた。この綿の栽培が定着することにより、繊維産業が大々的にデビューすることになる。海からの産物である魚、塩とその海上運送を中心とした産業に加えて基幹産業となった綿織物が出現することにより、男は塩田で働き、女は織物生産に従事するという生活のパターンが定着してきた。漁業、塩業、機業のいわゆる『児島三白』という言葉で代表される児島の産業にかけた庶民の生活がうかがわれる。

 喩伽山蓮台寺中興の祖といわれる増吽によって復興した喩伽山は、しばらく信仰の霊地として栄えたが、戦国時代に再び衰え、江戸中期に至ってようやく発展の波に乗る。岡山藩主が篤く信奉するようになると、山中に軒を並べる繁華街となるほどの大繁盛を迎えた文化文政から天保のころ(19世紀前半)が、最も繁盛した時期であるが、中でも讃岐の金毘羅大権現との結合による両参りの旅は、庶民を旅へとかりたてた。それは、信仰と娯楽を兼ねた旅であり、上方、江戸をはじめおびただしい数の参詣者を集め、たくさんの玉垣や石鳥居に寄進名を残した。五穀豊饒、海上安全の神様である金毘羅さんに対し、商売繁盛の神様である喩伽大権現を配し、両方を参るとすべてのおかげをもらえるとして、片参りを忌む気風を生むなど、当時の旅行趣味を巧みに利用した商売上手は観光産業の成功のみならず、新しい産業を生むことになる。

 由加と琴平を結ぶ参詣コースとして由加山に近い下村港と田の口港には、金毘羅参詣を目当てとした船宿や渡海屋が繁盛し、名物としての餅や酒などの食品、小倉織りや真田紐などの土産品作りが発達した。現金収入を得ることのできる生産物として繊維産業が登場すると、池田家は主要な財源として綿、織物の輸出と管理に乗り出し、下津井に綿会所、田の口に小倉寄せ場を設置するなど、保護振興に勤め、大阪方面に取引が拡大した。今も下村港の堀江といわれていた場所には、南にむかっては金毘羅大権現、北にむかっては喩伽大権現と書かれた扁額が掛けられた両神鳥居が、田の口港には、大鳥居と呵吽の形相の唐獅子が向かいあって、往時を忍ばせる。

 田の口港から約一里(およそ4キロ)の山道の両側には、茶屋や土産物屋が並び、風待ち、潮待ちのための宿や、芸妓屋、料亭なども栄え、全国の旅人がひしめきあった。由加は、児島の分水嶺でもあったため、四方からの参道もひろがり、池田家が篤い信仰を捧げたことで、藩士の遊楽も可能な現地の状況は、圧政下の庶民に自由な天地を提供した。江戸本所塩原太助や一族の寄進した玉垣をはじめ、今も残る多くの献納品、広重の残した由加や田の口の絵姿、寺宝に残る円山応挙の名画など、参道周辺や由加の門前に遊楽した風流人による文化的な発展も見ることになった。

 由加の参道が由加山を中心として四方に広がったこのころ、児島を巡るもうひとつの道が、できあがった。柳田町吉塔寺の住職、円明上人らによって、児島八十八か所が設置されたのである。児島半島を隈無く巡るお大師さま信仰の道は現在も四国八十八か所にかわる地域の巡礼として、人々に愛されている。しかし、かの吉備の児島の中だけでこれだけの寺院やお堂が今も健在であり、月例のお参りが行なわれていることは歴史と文化か活きづいていることの証である。ちなみに、我が児島地区には引網の十九番大師堂から宇野津の三十七番観音堂までの他、曽原の一等寺、瑜伽山蓮台寺など二十六か所あまりがある。

 富田屋の衰退は、塩田経営において生産過程に力を注ぐことを怠り、流通に深入りしすぎたことが原因と言われているが、実際18世紀中には、赤崎村六町歩余、味野村五町歩余の塩田面積はあまり増加していない。児島における大規模新浜の築造は、19世紀に入って野崎武左衛門の手によって行なわれた。武左衛門は、味野村の中産の農家の出身であるが、成人すると夫婦で足袋縫製業を始め精励、成功をおさめた。およそ20年を費やした資金をもって新浜開発に踏みきり、文政十二年(1829)約十町歩の味野浜を完成し翌年には赤崎浜約五町歩を加えた。味野の野と、赤崎の崎をとって野崎氏と改名、次々と新浜の開発に成功した。児島半島南岸にそって生涯約百六十町歩の塩田を開発するとともに福田新田の干拓などに参画し、弘化年間には名字帯刀を許されるなど、百町歩を超える巨大地主となった。

 このように、塩業、機業が児島の地場産業としての隆盛を迎えた背景には、金毘羅との交流による四国からの人口の流入の他、次男三男の労働力を新産業へ吸収するという役割を期待されたという事情もある。

明治から大正へ
 明治にはいっても、しばらくは帆船中心の航海時代であり下津井、田の口、下村などは金毘羅参詣の街道として繁栄した。しかし、汽車、汽船が発達してくると陸運は鉄道に、海運は汽船に移行してだんだんと海運の拠点としての地位は低下し、港は漁港化した。特に明治初年の神仏分離を発端とする瑜伽大権現の衰退は、参詣客の減少と信仰心の低下に拍車をかけ、江戸中期以来の繁栄は過去のものとなった。明治末年、宇野の築港、宇野線の開業、宇高航路の就航と続いた国鉄による児島の縦断で、吉備の児島は分断され、塩業と機業の現在の児島地区と、塩業と誘致された三井造船による重工業の玉野地区の性格の違った地域へと変わっていった。

 一方、西洋文化の流入による風俗の変化と、交通方法の変革による由加の衰退は、土産物としての真田紐、小倉織りに大打撃を与え、失業者と転業者とが続出した。しかし、商魂たくましい児島の繊維業者たちは、丈夫な小倉織りを諸国に行商するとともに、袴地や前掛地の製造に転じた。明治中期になると、足袋の製造が盛んになり再び躍進した業者の多くが現在も営業を続け、今日の学生服、作業服のメーカーとして児島を支えている。その後、景気の波に翻弄されながらも国内各地へ進出を続け、日清戦役の後は、大陸への輸出に活路を見いだす。起業家ベンチャー精神に富んだ、与田銀次郎、角南万次郎などの児島の企業家は、中国、韓国むけの輸出により大飛躍をとげた。韓国むけ腰帯、中国向けの紐やゲートルなど、多くの織物製品群が、釜山を根拠地として輸出され、児島内特に田の口地区での競争は激烈を極めた。

 この間、当初は原料の原糸は依然として手紡ぎであり、染料も藍を中心とした植物染料であったが、与田銀次郎らのたゆまざる努力により、一歩一歩、家内工業の域を脱し、染料は化学染料の時代へと近付いていった。一方、糸は洋糸の紡績糸を使用するようになり内地製への要望から、明治13年、渾大坊兄弟により日本でも最古の下村紡績所が設立された。渾大坊埃二、益三郎の兄弟は、明治11年、まだ日本ではわずかしか導入されていなかった紡績機に着目、時の政府の綿産地への貸与制度を利用して岡山県下初の紡績所として創業したのである。明治28年になると、別の企業家グループにより味野にも紡績所が設立され、下村対味野の対立関係によって互いに励み合うという構図は、他の分野にも広がり、練り糸機や織機の発達に良い結果をもたらした。

 明治末期の児島の機業の中心は、帯子(たいず)の輸出と足袋の生産であった。当時の資料によると、児島地区の足袋の生産は550万足に及んでいたという。なかでも、由加山の西山麓にあたる上村には業者が集中していた。どの家も足袋の生産で活気づき、特に橋本屋の松三家では、明治39年、進取の気性に富んだ松三曙が足袋縫製に初めて動力ミシンを導入し、大正初年からの児島足袋の全盛期を迎えた。変わったところでは、大畠の永山久吉はゴム底足袋(所謂地下足袋)を考案した。また、真田紐、ランプの芯などの伝統的細巾織物は、中国向け帯子の停滞から、光輝畳縁といわれる畳のヘリに取り組みをはじめ、これを初めて取り入れた松井武平は、後に児島商工会議所初代会頭を勤めた。

大正から昭和へ
 大正末期より織物の大陸向け輸出が停滞し、かつ生活様式の変化により足袋の生産が衰退するに至って、業者は縫製の技術を利用して学生服、作業服の製造へと転換を始めた。中でも、明治末期に小川の家守善平らによって設立されていた児島織物合資会社は、小倉織りから足袋製造へ、ミシン導入による一躍倍増を経て、大正10年より学生服製造を開始した。この間、資本金は30倍化した株式会社へと拡大した。足袋業者が足袋裁断の技術を利用して学生服へ転じたの対し、染色や製塩業、醤油製造、飲料業者など多くの他業種からも被服工業に転換した者が多い。特に、南部の琴浦町を中心に同業者が急拡大し、昭和10年頃には、小学生服全国生産をほぼ独占するまでになった。

 学生服や作業服などの被服製造が、主要産業の第一になる一方、関連する多くの業種が集積し、紡績業、撚糸業、染色業、整理業、ミシン業者からボタン製造業などが栄えている。明治時代に先覚者たちによって他に先んじて栄え、倉敷紡績設立に際しては経営の指導までした紡績業も、原料の自給自足はなしえず原綿輸入の交通不便から経営が安定しなかった。買収による盛衰を繰り返したが、第2次大戦を前に衣料統制により停滞し、敷島紡績株式会社となってようやく存続した。味野町民の支援などにより、戦後再び再生し中国地方随一の紡機を持つに至ったが、合成繊維の登場により昭和33年ついに味野の紡績工場も廃止された。

 由加山周辺を中心に行なわれていた撚糸業は、当初水車動力を使用していたが、練糸機が登場するなど機械化が進み、蒸気、石油機関利用の動力を導入することにより、生産が向上した。織物の隆盛が続き、染色業もつれて発達したが、化学染料の使用と取り扱い量が増大するに従い、環境問題も発生するようになった。工業用水の導入などにより、浄化の努力が続けられているが、依然として苦心している。大正初期に備前織物組合が染織研究所を設けて、色々な整理機械を研究し、導入することによって整理機による織物加工が進展したため、他の一般織物の作業にも好影響を与えた。

 皆が小倉から足袋、学生服へと移り変わる中、児島機業のうちでも最も古い歴史を持つ細巾織物の伝統をひたすら守ってきたのは、唐琴地区の業者たちであった。帯子から、ランプ芯、テープ、畳の縁などを織っていたが、大正後期に光輝畳縁が考案されるや、松井武平がこれを学んで導入した。関東大震災で畳の縁が飛躍的に増大し、昭和に入ると全国の30パーセントを生産するようになった。戦後一時、停滞した時期を経て、艶付け機の改良などにより、昭和30年頃から、急速に競争力をつけて遂に、全国生産のトップとなり現在に至っている。

 この間、宇野線の開通により下津井、大畠などの港は、かっての拠点港の面影を失い、漁港としての風情を増すが、昭和初年に全国に紹介された鷲羽山は瀬戸内随一の展望を誇り、多くの観光客を集めた。同時に、下津井節も全国に名を馳せることとなった。

 昭和28年、A地区の埋め立てに始まる水島工業地帯の造成は、児島の半島化、宇野線の開通に続く大転機であった。重工業系の企業活動が活発になるに従い、水島で働く人が増える一方で、合成繊維の出現は学生服の生産を急拡大させる。東京オリンピックの前年昭和38年には、一千万着を超える史上最高の生産を達成した。前述のように、光輝畳縁も全国−の生産を誇るようになったこの頃、全国からの集団就職の女子が児島地区の寄宿舎にあふれ、街は活気にあふれた。ピーク時には、毎年3000人を超える若者が下津井電鉄に乗って児島の地へと訪れ、定時制高校に通いながら働いた。映画館の数も多く、洋画専門館を含めて味野だけでも5館を数えるなど、賑わい、味野の土曜夜市の人の波には、縫製業で働く若い女性たちがあふれた。

 しかし、この頃をピークに学生服の需要が減少し、児島機業は再び岐路に立たされることになった。従来の詰襟金ボタンの学生服から、スクールウェアと言われる時代に入って学生服の単品大量生産から、女子制服、カジュアル、体育衣料、作業服、オフイスウェアなど多品目、少量生産の体制へと移ることを余儀なくさせられた。中には、当時世界的な風俗となりつつあったブルージーンズー本に商運を賭ける者も現れ、大成功している。それまで競いあっていた琴浦と味野の合併によって戦後生まれた児島市は、昭和42年さらに倉敷、玉島と合併し今の倉敷市になった。そして、かっての児島産業の基礎であった塩業は広大な塩田を使っての塩づくりの時代を終え、この広大な塩田跡の埋め立てにより、味野、琴浦地区にも新しく利用できる土地が増加、児島の産業分布に新たな変革が起きる。

昭和から平成へ

 
 
野ア家により江戸末期から大きく栄えた味野の塩田も、下津井軽便鉄道の開通などをきっかけに、大正、昭和にかけて減少の一途をたどっていた。広大な土地を必要とする入浜式の塩田も、つぎつぎと工場拡張用地や学校敷地、港湾築造などのために提供され、昭和26年頃に流下式塩田が登場するや数年ですべての入浜式塩田は流下式に転換した。塩田面積は減少したものの、野ア家を始め味野塩業組合の熱意と専売制の援助もあって、逆に収量は増加した。製塩工場は、カナワ式が閉鎖され真空式工場のみとなり、昭和44年にイオン交換膜方式に転換するに至って南児島の塩田は完全に廃止された。塩田跡は、年々埋め立てが進み、工場や、住宅、店舗などが広がってかっての塩田の風景はその地形をもって推測できるに留まるようになった。

 昭和40年代後半に至ると、児島の学生服生産はかっての半分以下となり、生産過剰と過当競争により、カジュアル、体育衣料、作業服、スクールウェアなど、多品種少量生産に移行せざるを得なくなった。また、労働力不足も顕著になって、地方へ分工場をつくったり、海外へ生産の拠点を求める者も現れた。昭和48年の石油危機と翌49年の三菱石油の油流出事故は、今までの製品、製法、販売に一大転機を要求する象徴的なできごととなった。この年をさかいに、老舗の紡績業、織物業が相次いで店を閉じ、新しいものが、望まれる時代となった。消費の低迷、アジアからの輸入品の攻勢、素材の多様化、好みの変化などにより、服飾に関する考え方が大きく変化して、如何に個性的であるかが最も問われる量から質の時代へと変わっていった。

 昭和53年、瀬戸大橋が着工されるや、完成後への期待が膨らんだ。敷島紡績の跡地ヘー旦は展開した味野商店街は、旧塩田沖の海岸沿いに立地したJR児島駅に向かってさらに進出を計ったが、広い都市計画道路沿いの大型店に押されるなど、過去の賑わいを取り戻すには、至っていない。瀬戸大橋の完成により、JR児島駅が開業、記念して開催された博覧会が開催された場所には、公園、民話通り、倉敷ファッションセンターなどが作られたが、未だ、空間と呼ばれるほどの巨大な敷地が手付かずのまま残っている。瀬戸大橋の架橋により、高速交通網は拡大し、瀬戸大橋線を使っての岡山、香川方面への通勤通学が一般化したが、逆に地区内での交通に不便を感じるようになっている。下津井電鉄も廃止となり、バスなどの公共交通が十分とは言えない状況から、自家用車が急増した。

徳富蘇峰が山頂を『鍾秀峰』と命名し、昭和天皇が

夕さればあかねにそまる空の下波たたぬ沖の島山の見ゆ

(夕方になってあかね色にそまった空の下に波もなく静に広がる海の中には、多くの美しい島々が、雲海の山のように浮かんで見えるよ)

と詠まれた日本最初の国立公園鷲羽山からの眺望に対しては、瀬戸大橋の景観論が沸騰したが、瀬戸大橋完成後は、第一級の観光資源として再び観光客を集めた。
現代の児島
 有史以来1300年を超える児島の歴史は、常に交通路としての地位の変遷が盛衰を左右してきた。下津井、大畠などの港は、たこやめばる、鯛や鰆の他、瀬戸内海の小魚を水揚げする鄙びた漁港となり、本庄と呼ばれた通生の庄は、無花果など少々の農作物を残し眼前に広がる巨大な水島コンビナートに飲み込まれてしまった。かっての漁業は、凋落し米作りも多くは北側の大干拓地に発展し、児島地区内では、郷内地区など限られた場所でしか見られなくなってしまった。塩と海運も往時の勢いを失ったが、機業を始めとしたものづくりの機能は継承され、酒造、醸造、伝統的菓子などが作られている。また、西側の水島工業地帯に属する場所では、大型造船所をはじめ、重化学工業が集積しており、域内には水島工業地帯での自動車生産に部品を供給するプレスエ業、ベルトエ場などもある。

 瀬戸大橋と鷲羽山の観光はピークは過ぎたものの、依然として第一級の観光資源であり、初詣でに見られる由加の復活も明るい材料である。塩田王と言われた野ア家の旧宅には軒を連ねる土蔵群や表書院、庭などが手入れよく保存されており、味野商店街をはさんで別邸の台暇堂、巨大な石作りの尖塔「野アの記念碑」がある。地区内には、倉敷駅周辺が吉備の穴海と呼ばれた海であった鎌倉以前の創建とされる古寺、古社も多く残っている。

 瀬戸大橋線の開通により、通勤通学の可能範囲が広がるなど、地区外へ向かっての交通網は拡充されてきたが、前述のように、地区内の交通事情は古い町並みのため必ずしも好転していない。高速道へのインターチェンジは2か所あって、日本海の米子、太平洋の高知へそれぞれ2時間足らずで到達できる。また、神戸、広島の東西の大都市圏へも2時間あまりという高速交通拠点の結節点に位置している。

 一方、海岸からの丘陵地帯には宅地開発が進み、自然環境の悪化、河川の汚れや海の砂採取など、環境に対する脅威は益々増加している。

児島の産業

 
 
児島の産業の特徴は江戸後期以降、明治、大正、昭和にかけての盛衰のたびに新しい方向へ転換し、チャレンジを繰り返し成功を収めた起業家ベンチャー精神にある。

・白布で足袋を作り、行商した金を元手に塩田王となった野崎武左衛門

・塩業をもとに下村紡績所を設立した渾大坊埃二、益三郎兄弟

・大陸に進出しおおいに輸出し、織機や染料の改良にも取り組んだ与田銀次郎

・織物業者から学生服への転換やミシン縫製導入に尽力した家守善平

など児島的大発展や再生の例は枚挙にいとまがない。

 また、意外と思われるかもしれないが、塩廻船の海運、明治大正にかけての大陸への進出、昭和末期の製造拠点の海外展開、最近のヨーロッパとの企画デザイン協力など、常に海外との関係を持ち、国際化によって苦況を乗り越えてきた歴史を持っている。さらに、最近では、インターネット利用の企画製造販売の形態も発生して、ますます国際化は進む方向である。

 児島は、栄枯盛衰を繰り返しながらも、近代〜現代の150年ほどのチャレンジで、繊維産業にかかわるあらゆる分野の業種をこの地に残した。綿を使った糸から、織物、染色、縫製と発展してきた業態のほとんどが現在残っており、細巾から、広巾へ、足袋から学生服へ、服装の変化にともないアパレルヘと歴史の流れをうかがうことができる。この間デザイン、企画、製造、販売のノウハウが蓄積され、他の地域に見られない集積を示している。また、女子が縫製を中心に働く機会が多かったことで、働くことをいとわない気質があり、その力を発揮させる場を提供する必要がある。

 一方、これらの集積を維持し、児島が繊維産業の拠点としての地位を維持することは、過去の例を見ても、容易ではない。災害のない自然と、旺盛なベンチャー精神は地域内での協業、協調性の醸成に課題を残しており、今後を占う上で最も重要なことは、児島の商人気質であり、地域の生活者の取り組み方、児島への思いである。

児島の商人

 
 
顧みれば、かなりの短期間に栄枯盛衰を繰り返した児島の産業界を生きぬいた児島商人の神髄は打って出る商売の仕方にある。児島が多くの繊維製品を製作していることは誰もが知っているが、どこでどのように販売されているかについては、知る人ぞ知るという状態になっている。したがって、児島の商人の行動に関しては、いろいろなことが言われている。児島の商人が通ったあとは草も生えないとか、児島で商売できれば他の地域で十分やっていけるという類の評価である。一見マイナスの評価であるが、これらの言葉は、それだけ熱心に商売をしたという証であり、逆境にも負けない児島商人の逞しさを表しており、児島の商人が動き出せば、かなわないということの表明である。

 児島商人への評価は、近江商人に対する評価と似たところがある、彼らの商売の原点はマーケッティングとそれに携わる人への教育に熱心なことである。近江商人に代表される日本の商売は世界に冠たるマーケッティング手法と教訓を残しているが、備前児島の商人は確かに同じ道を歩いてきたようである。一方で、児島の先駆者たちは、いろいろな技術を新しい参入者に指導、伝授する余裕を持っていた。倉敷紡績設立に際しては下村紡績が指導し、動力織機の普及期には近県業者への指導などが行なわれていた。

ファッションタウン構想の視点


 
昨今は、倉敷との比較で児島には文化がないとか、教育環境が不十分というような評価が聞かれるが、歴史も文化も十分に存在する。教育には熱心なあまり、地域外の先進地や中央へと遊学した若者が地元に戻らないという弊害が、地元の教育環境を不十分なものにしているという意見もある。外に打って出るという商売の性格から地元児島の評価を顧みることに十分意を払ってこなかったことが、今日の状況をもたらしたと言える。

 ファッションタウン構想は、言わば児島再発見の旅のシナリオである。1000年以上の生活と産業の歴史は、掘り起こす価値がある。多くの児島の市民が顧みることを忘れていた児島にも、膨大な歴史と文化の蓄積がある。文化を作る力、守る力も衰えたわけではない。自治会活動、詩歌、絵画、歌などのサークル活動、ボランティアグループなど他の地域以上に活発な活動を続けている者も多い。児島の歴史、文化資産、実状の把握を十分に行い、誇りを持って児島を紹介発信していく力を取り戻さなくてはならない。特に生活に密着したものづくりの力を維持発展させること、倉敷発展のルーツは児島にあったことを再認識したい。たとえば、呼び込む商売で成功している倉敷地区は、美観地区と大原美術館を中心に大原家の成功の成果を活かしているわけだが、アイビースクエアとなって人々に親しまれている倉敷紡績の開業にあたっては、大原倉紡頭取が直接下村紡績に指導を仰いだという事実がある。また、干拓によって生まれた倉敷には、多くの児島の人々が移り住んだと考えられ、大原家もまた、これらの人々の中から生まれてきたと聞いている。


参考、参照した資料

『児島風土記』倉敷の自然をまもる会
『児島産業史の研究』多和和彦
『児島機業と児島商人』角田直一
『児島の日本一物語』角田直一
『日本の古代遺跡23岡山』間壁忠彦、間壁蔑子
『暮らしの瀬戸内海』角田直一
「路地と港街」角田直一
『しわく騒動記』角田直一
『歴史のまち下津井』大谷壽文
『日本史辞典』角川書店